三千円の印鑑
ゆかりは先月、仕事で名古屋に引っ越してきた。 給料を受け取るために、この町の銀行に口座を作らなければならない。 前の日の夜、必要なものをインターネットで調べて、全部かばんに入れておいた。 身分証明書、住民票、部屋の契約書、それから、その朝はんこ屋で作ったばかりの印鑑。
銀行の窓口は、思っていたより静かだった。 番号を呼ばれて席に座ると、係員の女性がゆっくりと言った。 「本日は口座の開設ですね。恐れ入りますが、身分証明書を拝見してもよろしいでしょうか。」
ゆかりはかばんから茶色い封筒を出して、中の書類を全部机の上に並べた。 「あの、これで足りるでしょうか。住民票も、部屋の契約書も持ってきました。」
係員は少し驚いたようだった。 「ずいぶんしっかり準備なさったんですね。」
「間違えないように、昨日の夜、リストを作ったんです。」
「では、免許証だけお借りします。ほかの書類は、お返ししますね。」 係員は一枚ずつ確認して、封筒に戻してくれた。
ゆかりは最後に、小さな箱を机の上に置いた。 「印鑑もあります。今朝、作ってもらいました。」
係員は少し困った顔をして、それから優しく言った。 「実は、当行では、印鑑がなくてもサインで口座が作れるようになったんですよ。」
ゆかりの手が止まった。 三千円の印鑑。 名字を彫ってもらうのに、三十分待った。
「……いらなかったんですか。」
「いえ、もちろん使えます。せっかく作られたんですから、こちらで登録しておきましょうか。それに、その印鑑は、これからきっと必要になりますよ。」 係員はゆかりの封筒を指さした。 「お部屋の契約書、まだ判を押していませんよね。」
ゆかりは自分の契約書を見た。 名前を書く場所の横に、丸い空きがある。 まだ何も押されていない。
「……はい。お願いします。」
十五分ほどで、通帳ができた。 「キャッシュカードは、一週間ほどで、ご自宅に郵便で届きます。お給料の振り込みに使うときは、この番号を会社にお伝えください」と係員が言った。
外に出ると、風が冷たかった。 ゆかりは通帳と印鑑をかばんに入れて、駅の向こうの不動産屋のほうへ歩き出した。 今朝の買い物は、無駄ではなかったようだ。
