左を向いたサドル
中野駅前の交番は、朝の九時なのにもう暖房が効きすぎていた。 警官の日下部は机の上に用紙を一枚置いて、蒲原という女性に椅子をすすめた。
「自転車を盗まれまして」と蒲原は言った。 「ゆうべスーパーの前に止めておいたんですけど、買い物から出てきたら、もうなくて」
「防犯登録の番号は分かりますか」
「番号、ですか。たしか、シールは貼ってあったと思うんですが」
日下部はうなずいて、次の欄に移った。 メーカーはどこか。 分からない。 買ったのは何年前か。 八年前か、九年前か。 スタンドは片方か、両方か。 蒲原は少し笑って、考えたこともないと答えた。
「とりあえず、色からいきましょう」
蒲原は天井をしばらく見てから、銀色、あるいは白に近い灰色だと言った。
「いわゆるママチャリですね」
「はい。前にかごがあって、うしろにも……いえ、うしろはなかったかもしれません」
日下部のペンのインクが切れた。 彼は引き出しからもう一本出して、同じ欄をなぞり直した。
「値段はおよそいくらでしたか」
「一万円くらい、だったと思います」
「さすがに、特徴が一つはほしいんです」と日下部は言った。 「これだけだと、私の頭にも自転車のイメージが浮かびません。犯人を捕まえるどころか、見つかっても蒲原さんのものだと言えないので」
「毎日乗っていたのに」と蒲原は自分で驚いたように言った。 「私、一度もちゃんと見ていなかったんですね」
泥棒は鍵のかかっていない自転車から選びますから、と日下部は言いかけて、やめた。 窓の外を、自転車が二台続けて通っていった。
「どうにか思い出してください。どんなふうに古かったか、どこが壊れていたか、それだけでも」
蒲原は目を閉じた。 たっぷり一分がたった。
「サドルです」と蒲原は言った。 「サドルが左にずれてるんです。まっすぐに直しても、次の日にはまた左を向いていて。もう八年、斜めのまま乗っていました」
日下部はその朝はじめて、用紙の欄を一つ、最後まで書いた。
