古い懐中電灯
十月の八ヶ岳は、三時を過ぎるともう寒い。 僕は一人で赤岳の下の道を歩いていた。 朝の天気予報は晴れだったのに、四時ごろ、空が急に暗くなった。
最初は小さい雨だった。 でも十分後には、風で傘が使えないほど強くなった。 スマホで地図を見ようとしたら、電池が十パーセントしか残っていない。 朝から写真を撮りすぎたのだ。
雨で道が見えなくなって、僕はしばらく進めなくなった。 暗くなる前に、山小屋に着かなければならない。 僕は走った。
後ろで、ドン、という低い音がした。 振り返ると、大きい石が三つ、道の真ん中に落ちていた。 一分前まで、僕が歩いていた場所だった。 しばらく足が動かなかった。
山小屋の明かりが見えたのは、その十分後だった。 戸を開けたら、暖かい空気とストーブの匂いが顔に当たった。
「よく来たね。雨、ひどかっただろう」と主人が言った。 七十歳ぐらいの、背の低い人だった。 僕が帳面に名前を書くと、「けん君か。今日は君で三人目だ」と続けた。
僕が石の話をすると、主人はうなずいた。 「あの辺りは毎年落ちるんだ。だからみんな、四時までに着くようにしてる」
夜、ご飯の後で外のトイレに行くとき、主人が古い懐中電灯を貸してくれた。 金属で、重くて、僕の手のひらより大きい。 スマホのライトのほうが便利だと思った。 でも、僕のスマホはもう電池が切れていた。
九時に、小屋の発電機が止まった。 部屋が真っ暗になって、だれかが「わあ」と声を上げた。 僕はポケットの懐中電灯を思い出して、スイッチを入れた。 黄色い光が天井まで届いて、みんなの顔が見えた。
「四十年前から使ってる。電池を入れたら、いつでもつくよ」と主人が言った。
翌朝は、窓の外が青かった。 僕は懐中電灯を返して、ザックから新しい電池を出した。
「これ、置いていきます。昨日、本当に役に立ちましたから」
主人は電池を受け取って、棚の電灯の横に並べた。 「じゃあ、次に来る人のために取っておくよ」
