締め切りの前の夜
午後十一時を過ぎても、事務所の明かりは消えなかった。 残っているのは隆之と由美の二人だけだ。 窓の外では、細かい雨が降り続いている。
締め切りは明日の午前十時。 駅前に来月オープンする小さな書店から、ロゴと看板のデザインを頼まれていた。 案はもう仕上がっている。 落ち着いた緑と白の、間違いのない案だ。 これを出せば、たぶん一度で通る。
「隆之さん、少しだけ見てもらえますか」
由美が自分の画面を隆之のほうへ向けた。 そこに映っていたのは、今までの案とは全く違うものだった。 店名の文字が本のページのように折れていて、看板にすると、遠くからは少し読みにくいかもしれない。
「昨日の夜、作ってみました」と由美が言った。 「安全なほうの案は、あの店とあまりつながりがないような気がして。店主さん、初めて会った日に古い本の話を三十分もしてくれたじゃないですか」
隆之は黙って画面を見ていた。 悪くない。 正直に言えば、今の案よりずっといい。 ただ、この案に変えるなら、看板の図面も夜のうちに作り直さなければならない。 しかも先方が気に入らなければ、直す時間はもうない。 契約そのものが飛ぶ可能性もある。 魅力的だが、かなり危険な案だった。
「間に合うのか。朝までに」と隆之は聞いた。
「三時間あれば、できます」
由美の声には迷いがなかった。 若いころ、自分も同じような案を出して、上の人間に止められたことがある。 あのときは腹が立った。 止める側にも理由があると分かったのは、それから十年も後だ。 安全な案を出せば、誰も困らない。 ただ、誰も喜ばない。
隆之は椅子の背に体を預けて、天井を見た。 それから机の上のコーヒーを一口飲んだ。 とっくに冷たくなっていた。 雨の音が急に大きく聞こえた。
「じゃあ、それでいこう」と隆之は言った。 「迷っている時間はない。俺が決める」
由美の顔が明るくなった。 隆之は続けた。 「ただし、明日先方に説明するのは俺だ。断られたら、責任は俺にある。君は図面に集中してくれ」
由美は小さくうなずいて、すぐに画面に戻った。 キーボードの音が、雨の音と一緒に部屋に満ちていく。 隆之は自分の机に戻り、明日の朝、最初に言う一言を紙に書き始めた。 書いては消し、また書いた。 決めるのは一瞬だったが、それを説明するのには、たぶん朝までかかる。
