括弧の中の名前
その日、彼女が書いた書類は三枚目だった。 三枚に共通していたのは、書く中身がほとんど同じことだった。 違うのは、名前を書く順番だけだった。
一枚目は区役所だった。 保険に加入するための紙で、姓の箱と名の箱が分かれていた。 出身の国では、まず自分の名前を言い、家族の名前は後ろに来る。 母国のパスポートにも、その順番で印刷されている。 在留カードのほうは反対なので、そのとおりに書いたら、名の箱に二つの名前を入れることになり、字が線からはみ出してしまった。 書き直しになった。 窓口の人は謝って、新しい紙を出してくれた。 彼女も謝った。 どちらも悪くない。
二枚目は銀行だった。 番号券を取って三十分待った。 パスポートの写しを出すと、個人情報の保護のために一枚預かると言われた。 国籍の欄と勤め先の欄を埋め、名前の欄まで来ると、機械で処理できる字数が決まっているので、名は最初の一つだけにしてほしいと言われた。 留学生だったころから、彼女は同じ説明を何度も聞いている。 腹は立たない。 面倒なのは人ではなく、箱の数のほうだった。
三枚目は携帯電話の店だった。 夕方で、店の中には子ども連れの客が二組いた。 契約の紙は、区役所のものとも銀行のものとも違う形だったが、姓と名の箱はやはり二つしかなかった。 窓口の人は硲さんといった。 硲さんは、外国人のお客さんは登録の順番が全て同じではないので、と言いかけて、途中でやめた。 それから体を少し傾けて、こう聞いた。
「普段、人からは何と呼ばれていますか。」
彼女は、いつも自分で言っているとおりの順番で、名前を言った。 硲さんはうなずいて、その順番のまま、カタカナで書いた。 そして、その横に括弧をつけ、カードに印刷されている順番をもう一度書き足した。
「括弧のほうは機械のためです。前が、お名前ですから。」
彼女は紙を見た。 一枚の紙に二通りの順番が並んでいるのは、これが初めてだった。
