前を頼む
六月の火曜日、五時十分。 昼の雨で、トラックの内側のレーンはまだ黒くぬれていた。 長距離の三千メートルのタイムトライアルは、四百メートルのトラックを七周半走る。 千夏にとって、三年生になってから三回目のトライアルだった。
千夏は三年間、美和の後ろを走ってきた。 美和は一年生から県大会に出ている選手で、走り方にも声にも自信がある。 先生の指示は毎回同じだった。 美和がペースをつくり、千夏はその三メートル後ろについていく。 それでいい、と言われてきた。
四月のトライアルでは、その通りになった。 三周目で差が十メートルになり、五周目で美和の背中が見えなくなった。 記録は美和が十一分二秒、千夏が十一分四十秒。 去年と同じ、その前の年と同じだ。
五月から、千夏は自分でノートをつけ始めた。 朝、家の近くの川沿いを六キロ走る。 一周ごとのタイムを、走りながら口の中で数える。 だれにも言わなかった。 五月のトライアルでは六周目まで美和のすぐ後ろにいて、そこで足が動かなくなった。 それでも記録は十一分十八秒で、自己新だった。
同じころ、美和のノートは白いままだった。 部長の仕事が増え、練習に遅れて来る日があった。 千夏はそれを知っていたが、何も言わなかった。
今日の一本目、美和は八十二秒で入った。 四月より二秒遅い。 千夏は後ろで、口の中で数を数え続けた。 八十二、八十三、八十二。 四周目、美和の肩が上下し始めた。 呼吸の音が、風の音より大きく聞こえる。 五周目で、千夏は三メートルの差を二メートルにした。 六周目、横に並んだ。 美和はこちらを見なかった。
残りの二周はすごく苦しかった。 足の裏が熱く、指先だけが冷たい。 それでも千夏は、数えるのをやめなかった。 最後の直線に入ったとき、後ろの足音はもう遠かった。 ストップウォッチの数字は十分五十二秒。 美和は十一分二十秒でゴールして、そのまま芝生に手をついた。
トライアルが終わると、一年生たちが集まってきた。 前は美和のところに集まっていた。 ペースの入り方、呼吸の合わせ方、朝に何を食べているか。 今日、その質問は千夏に向けられた。 千夏は自分の靴を見ながら、短く答えた。
美和は少し離れたところで、ストップウォッチのボタンを押していた。 それから千夏の前まで来て、言った。 「明日から、前、頼むわ」
「はい」と千夏は答えた。 自分の声が、思っていたよりずっと小さかった。
