六本の桜
タクシーは、田んぼの間の細い道をゆっくり走っていた。 駅を出てから、信号は一つも見ていない。
「お客さん、東京から?」と運転手が聞いた。 白髪の、七十を過ぎたくらいの人だった。
「はい。滝を見に来ました」
「あの滝ね。今の時期はいいですよ。雪が溶けて、水が多いから」
窓の外には、水を張ったばかりの田んぼが続いていて、その一枚一枚に空が映っている。 運転手は、右手の広い空き地を指さした。
「あそこ、昔は学校でしてね。分校です。私も通ってました」
「今は、何も残ってないんですね」
「子どもがいなくなりましたから。最後の年は、全部で六人でしたよ。冬は、上の学年の子が下の子を背負って歩いて来てました」
車は坂を上り、急に視界が開けた。 谷の向こうの斜面が、ところどころ薄い桃色になっている。
「あれ、桜ですか」と観光客は聞いた。
「山桜です。卒業のときに、一人一本ずつ植えることになってましてね。私らの年は六本」
運転手は少し速度を落とした。
「その前の年の分も、そのまた前の分もありますから、今は何本あるんだか。地図には載ってません。だから、誰も見に来ないんですよ」
「……ここ、止まってもらえますか。写真を撮りたいので」
運転手は笑って、車を道の端に寄せた。
「メーターは止めときます。私も、久しぶりに見たいので」
