全部やっておいたのに
(市民図書館三階の自習室。閉館まであと三十分。明日は英語のレベルテストだ。)
陽菜:見て、これ。今日のうちに全部やっておいたよ。単語は三百個、文法はこのページまで。
千尋:えっ、そこまで進んだの。私、まだ半分。
陽菜:机の上も片づけておいたし、鉛筆も五本けずっておいた。消しゴムは二つ買ってある。
千尋:二つ?
陽菜:一つ落としてしまったときのため。去年、消しゴムがなくてすごく困ったから。
千尋:陽菜って、そういうところ本当にすごいなあ。私は昨日、新しい問題集を買ったところで力を使いきっちゃった。
陽菜:買っただけ?
千尋:うん。かばんに入れておいたけど、まだ開けてない。
陽菜:今日は十時に寝るって決めてある。寝坊してしまったら、それで終わりだから。
千尋:私、目覚まし三つかけとくタイプ。三つ全部止めて、そのまま寝るけどね。
陽菜:それ、意味ないよ。
千尋:ね、そういえば、会場のこと聞いた?
陽菜:会場? 北高校でしょ。去年の案内に書いてあったから、バスの時間まで調べておいた。
千尋:それ、去年のだよ。今朝、新しいお知らせが出てた。今年から市民ホールに変わったって。
(陽菜はしばらく黙って、それからかばんの中のメモを出した。)
陽菜:……全部準備しておいたのに、一番大事なところを見落としてしまった。
千尋:ま、私は何も準備してないから、どこに行っても同じなんだけどね。
陽菜:バスは……ホールまで行くのかな。
千尋:歩けるよ。図書館の裏。ここから五分。
陽菜:……なんだ。じゃあ、明日は少し長く寝られる。
千尋:それ、いい話?
陽菜:私には一番いい話。ありがとう、千尋。
千尋:じゃあお礼に、今夜のうちに問題集、開けておこうかな。
陽菜:「かな」じゃなくて、開けて。
