師匠の椀
輪島の朝は寒かった。 大輔が仕事場に入ったとき、師匠はもう座って、細い刷毛を動かしていた。
大輔がこの工房に来て、二年になる。 まだ蒔絵も沈金も触らせてもらえない。 毎日、下地を塗って、固めて、研いで、また塗る。 それだけだ。
その日、大輔は自分の椀の中塗りを終えたところだった。 黒い面に、小さいほこりが一つ乗っているのが見えた。
指を伸ばして、そっと取ろうとした。 ほこりは取れた。 けれど、漆の面には、はっきりと指の跡が残ってしまった。
三日かけて塗った面だった。 大輔はしばらく動けなかった。
「師匠……。すみません、跡をつけてしまいました」
師匠は刷毛を置いて、椀を光にかざした。 しばらく見て、それから部屋の奥の戸を開けた。 中は湿気を入れた大きい木の箱で、職人はこれを風呂と呼ぶ。 棚には、塗ったばかりの椀がいくつも並べてあった。
「大輔。漆はどうやって固まるか、知ってるか」
「乾かして、固めます」
「違う。逆だ」師匠は箱の中を指した。 「漆は湿気があるから固まるんだ。だから乾いた部屋じゃなくて、こういう湿った箱に入れておく。水がないと固まらない」
大輔は初めて、その箱の意味が分かった。 毎日開け閉めしていたのに、何も知らなかった。
「輪島の椀はな、木地に布を着せて、地の粉を混ぜた下地を何度も塗って、それから上塗りをする。全部で百以上の仕事がある。一つの椀ができるまで、半年はかかるんだ」
「……半年」
「お前の三日は、その中の三日だ」師匠は椀を大輔の手に戻した。 「明日、研げ。研げば、また塗れる。漆っていうのは、何度でも塗り直せるように作ってあるんだよ」
昼になって、二人は仕事場の隅で飯を食べた。 師匠が使っている汁椀は、この工房で一番古そうに見えた。 縁のところだけ色が少し違っていて、よく見ると、形も少し歪んでいる。
「師匠、その椀……」
「これか」師匠は椀を持ち上げて、底を見せた。 「俺が十八のときに駄目にしたやつだ。研ぎすぎて、縁の厚さが変わっちまった。売り物にはならん」
「それを、五十年使ってるんですか」
「うちの師匠が、捨てるな、と言ったからな。売れない椀でも、飯は食える」
師匠は汁を飲んで、椀を布で拭いた。 その手の動きは、朝、刷毛を動かしていたときのように静かだった。
大輔は自分の椀を見た。 指の跡は、まだそこにある。 でも明日、研げば消せる。 この仕事は、そういうふうに作ってあるのだ。
