たった一行
金曜日の夜、会社の近くの居酒屋の個室に、課の六人が集まった。 まさきのシンガポール支店への異動が決まって、送別会が開かれたのだ。
ビールが並ぶと、小林さんが立ち上がって、コップを高く上げた。 「今日はめでたい話なんだから、暗い顔は禁止な。まさきは出世して行くんだから。じゃ、乾杯」
「乾杯」と全員が声を合わせた。
しばらくして、アリスがまさきの方を見て聞いた。 「まさきさん、英語のほうは大丈夫なんですか」
「全然だめ」とまさきは笑った。 「この三年、メールばかり書いてたら、話すほうを忘れちゃって。向こうに着いたら、最初の一週間は『はい』しか言えないと思う」
小林さんは自分のコップにビールを注ぎながら言った。 「困ったら、現地の人にすぐ聞け。日本人だけで固まらないようにしろよ」
まさきは姿勢を直して、頭を下げた。 「小林さんには、三年間、本当にいろいろ教えていただきました」
「やめろやめろ、そういうの」と小林さんは手を振った。
店を出る前に、アリスが紙袋から寄せ書きの色紙を出した。 みんなの字が、余白がないほど並んでいる。 アリスの欄がいちばん長くて、日本語で丁寧に書いてあった。
まさきは一つずつ読んでいって、右の下の隅で手を止めた。 小林さんの欄だけ、たった一行だった。
「早く帰ってこい。」
顔を上げると、小林さんはこちらを見ないで、店員にもう一杯注文していた。
