切れた弦
放課後の音楽室には、彩と健吾しかいなかった。 三日後のコンクールで、ソロを弾くのは一人だけだ。 先生はまだ決めていない。
彩は健吾のことが、正直、苦手だった。 うまいのに、練習中もほとんど何も言わない。 彩がうまく弾けた日も、失敗した日も、健吾は同じ顔で、ただ自分の音を出している。 去年、県のコンクールで彩が二位になったときも、「おめでとう」の一言もなかった。
その日も、二人は同じ曲を、別々に十回ずつ弾いた。 窓の外はもう暗い。 彩が最後にもう一度、と弓を上げた時、パン、と音がした。
弦が切れていた。
彩は動けなかった。 替えの弦は、家に置いてある。 楽器屋は駅の反対側で、もう閉まる時間だ。 明日は朝から合わせがある。
「これ」
健吾が、ケースの中から小さな袋を出して、彩の譜面台の上に置いた。 彩が使っているのと同じメーカーの、同じ太さの弦だった。
「……なんで、持ってるの」
「余ってたから」と健吾は言った。
でも、袋は開いていなかった。 それに、そのメーカーの弦を置いている店は、この辺りにはない。 彩がいつも買っているのは、三つ先の駅の、古い楽器屋だ。 健吾の家は、反対方向のはずだった。
彩は、去年の秋のことを思い出した。 あの時も、彩は同じ弦を切った。 健吾は何も言わずに、自分の弦を貸してくれた。 彩は「ありがとう」と言ったが、心の中では、余裕を見せられたと思っていた。
そのあと、健吾はあの店まで買いに行っていたのだ。 たぶん、あの日から、ずっと。
彩は弦を張り直した。 指が少し震えた。 音を合わせて、弓を弦に乗せる。
「三日後、負けないから」と彩は言った。
健吾は少しだけ笑って、「そうしてもらわないと困る」と言った。 それから、また自分の音を出し始めた。
