霧の中の影
その港町は、朝によく霧が出る。 夏休みに遊びに来た孫は、おじいさんの舟に乗せてもらった。 海の上は白くて、少し先の岩ももう見えなかった。
「昔、この海には大きなタコがいてな」とおじいさんが言った。
それは、村の年寄りがみんな知っている話だった。 霧の日に道が分からなくなった舟があると、水の中を黒い影がゆっくり動いて、舟の横をついてくる。 その影が行くほうへ舟を向けると、必ず港の灯りが見えてくる。 村の人はその影を「タコのじいさん」と呼んでいた。
「おじいちゃんも見たことある?」と孫が聞いた。
おじいさんはすぐには答えなかった。
「二十歳のとき、一度だけな。舟の横を、大きい影が長い間ついてきた。港に着いたら、もういなかった」
孫は海を見た。 白い霧のほかには何もない。 エンジンの音と、水の音だけが聞こえた。
港に戻ると、おじいさんは網から小さいタコを一匹つかんで、そのまま海に落とした。 孫が理由を聞くと、おじいさんは笑って言った。
「最初の一匹は返すんだ。この村の決まりだよ」
