棚の上の文庫本
飛行機は、五十分前から同じ場所に止まっている。 誰かのミスではなく、前の飛行機が使っている滑走路が空かないだけだ、と機内アナウンスは説明していた。 乗客の半分はもう眠っている。
窓側の奥山は、さっきから外をのぞきこんでいる。 その席の位置から見えるのは、滑走路の端の草と、灰色の空だけだ。 真ん中の席の真下は、奥山と、通路側で眠っている男にはさまれて、動けない。
「さっきから、同じ草しか見えないんですよ」と奥山が言った。
「一体いつ出るんでしょうね」と真下は答えた。
「札幌の方ですか」
「いえ、来月から住む部屋を見に行くところです。四時に約束があったんですが、もうあきらめました。明日の朝にしてもらいます」
真下は来月から札幌で働く。 住宅の内覧は今日しか時間が取れないはずだったので、余裕を持って二本早いものに変えた。 それでも間に合わなかった。
「私は六時です」と奥山が言った。 「旅館の夕食が六時までなんです。もう無理ですね」
「じゃあ、着いてから何か」
「駅前でラーメンでも食べます。それも、あきらめたうちに入りますか」
真下は少し笑った。 それから二人は、今日あきらめたものを数え始めた。 奥山は、旅館の夕食と、送迎バスの最終と、寝る前に温泉に入る時間。 真下は、四時の約束と、なんとか買おうと思っていた空港の弁当と、それから、ライター。
「手荷物の検査で取られました」と真下は付け加えた。
「あれは仕方ないですね」
互いの名前も知らないまま、二人は数え続けた。 真下の腕時計が、ぴったり四時になった。 内覧の時間だったが、二人ともそれについては何も言わなかった。
「こうなったら、のんびりするしかないですね」と奥山が言った。
そのとき、機内アナウンスが入った。 到着は予定より二時間ほど遅れる見込みで、離陸まではあと三十分かかる、シートベルトのサインは一度消す、という内容だった。 乗客の何人かが立ち上がった。
奥山は天井を見上げて、少し考えてから言った。
「あきらめるのを、一つだけやめます」
「え」
「上の棚に、今日読むつもりだった本が入っているんです。三十分あれば、取れますね」
奥山はシートベルトを外して、立ち上がった。 真下も立った。 通路側の男は、まだ眠っていた。
