抜けない敬語
高尾山の六号路を登りきったところに、木のベンチが二つ置いてある。 光はそこに座って、ペットボトルの水を飲んでいた。 となりに腰を下ろした女性が、帽子を取ってこちらを見た。
「もしかして、光さんでいらっしゃいますか」
光は水をこぼしそうになった。 中学校の三年間、同じクラスだった沙耶だ。 目のあたりは、二十年前とほとんど変わっていない。
「沙耶? うわ、久しぶり。二十年ぶりくらいか」
「ご無沙汰しております。お元気そうで安心いたしました。今日はいつごろ登り始めたんですか」
光は「六時半」と答えたが、少し落ち着かなかった。 同級生に「いらっしゃいますか」と言われたのは、生まれて初めてだ。 怒っているのだろうか。 それとも、自分のことをよく思い出せないのだろうか。
「あのさ、沙耶。おれ、昔なんかしたっけ」
「いえ、何も。どうしてでしょうか」
「だって、その話し方。昔は『光、おまえ歩くの遅い』って言ってたじゃん」
沙耶は口を押さえて、それから笑った。 「あのね、それが自分でも困ってるの。仕事で使っているうちに、抜けなくなっちゃって」
沙耶は八王子のホテルの受付で、もう十二年働いているという。 朝から晩までお客さんに「おっしゃる通りです」と言い続けていると、いつからか、休みの日にも口が勝手に敬語を選ぶ。
「山でも出るのか、それ」
「出るの。この前、母に『お荷物お持ちしましょうか』って言って、気味悪がられた」
光は笑って、ペットボトルを差し出した。 「じゃあ、これ。お飲みになりますか」
「やめてよ」と沙耶が言った。
それから二人は、三十分ほどベンチに座って、中学校の担任の話をした。 沙耶の言葉は、だんだん昔のものに戻っていった。
立ち上がるとき、沙耶が言った。 「では、またお会いしましょう」
「出た」と光が笑った。
沙耶は少し考えて、言い直した。 「……また、な」
「うん。それでいい」
