宿場の馬
秋の夕方、直吉は木曽の山道を下りて、妻籠の宿場に着いた。 江戸を出てから三日目だった。 背中の箱には、京の商人に届ける手紙が入っている。 山道が雨でぬかるんでいたので、足がすっかり冷えていた。
宿場の通りは、旅の人と馬でいっぱいだった。 直吉は一番手前の旅籠の前に立って、大きな声で言った。
「すみません、一晩泊めてください。もう歩けないんです」
出てきたのは、五十くらいの女将だった。 直吉の泥だらけの足をちらっと見て、少し笑った。
「悪いけど、今夜はどこもいっぱいだよ。明日、お殿様の行列が通るからね」
「行列……」
「参勤交代さ。全部で三百人以上いるんだって。だから宿場中が三日前から準備してるの」
「三百人。俺は一人で三日走ってきたのに、それでも泊まれないんですか」
「一人だからだよ。三百人分の布団と飯を、この小さい町で用意しておかなきゃいけないんだから」
女将は通りの先を指した。 大きな門のある家が見えた。
「あの門の家が本陣。お殿様が泊まるところ。その隣が脇本陣で、家来が泊まる。うちみたいな旅籠は、その先の、安いほうだよ」
「行列が来ると、大変でしょう」
「大変だよ。行列が通るときは、この道が朝から晩まで人でいっぱいになるからね。でも、行列が来ない年のほうが、もっと大変。この町には田んぼがほとんどないの。街道がなかったら、ここには誰も住んでないよ」
直吉はもう一度、通りを見た。 確かに、どの家の前にも新しいむしろが敷いてあって、馬屋の前では男たちが馬の足を洗っていた。 荷物を運ぶための人足も、庭に集められている。
「……こんな山の中に、どうしてこんな町があるのか、やっと分かりました」
女将は台所のほうへ歩きながら、続けた。
「あの馬はね、みんなうちの町の馬なんだよ。だけど、次の宿場まで走ったら、そこで別の馬に代わるの。人足も同じ。荷物だけが先へ行くんだよ」
「じゃあ、馬は次の日に帰ってくるんですね」
「そう。そうやって二里ごとに一つずつ、町が並んでるの。宿場は、休むための町じゃないの。荷物と人を、次へ渡すための町なんだよ」
直吉は自分の背中の箱に手を当てた。 この手紙も、京まで自分が持っていくわけではない。 三つ先の宿場で、別の飛脚に渡すことになっている。 走るのは自分で、進むのは手紙だ。
「……俺も、あの馬と同じですね」
女将は振り返って、今度は声を出して笑った。
「そうだよ。だから、うちの土間でよければ寝ていきな。馬にはちゃんと飯を食わせておかないと、明日走れないだろう」
出してくれたにぎり飯は、まだ温かかった。
