ポケットの紙
乾杯までは、何もかも順調だった。 会場のシャンデリアは明るくて、ゆかりの白いドレスは想像していたよりずっときれいで、僕は自分がこの席に座っていることが、まだ少し信じられなかった。
ところが、主賓の祝辞が始まる直前になって、司会の女性が困った顔で近づいてきた。 「主賓の部長さんですが、電車が止まってしまったそうで、あと三十分はかかるみたいです」
僕が返事に困っていると、いちばん後ろのテーブルから手が挙がった。 中学の担任だった田中先生だった。 「私でよければ、代わりに少しお話ししましょうか」
正直、驚いた。 先生は昔から人前で話すのが苦手な人で、授業中に教科書を持つ手が震えているのを見たことがあるくらいだ。
司会の女性に名前を確かめられている間、先生は上着のボタンを留めていた。 マイクの前に立つと、一度深く息を吸ってから、ゆっくり話し始めた。 「けんじ君は、中学二年の一年間、私の授業で一度も手を挙げませんでした」
会場が静かになった。 隣でゆかりが小さく笑うのが分かった。
「でも、三学期に、作文を一つだけ出してくれました。題は『父の仕事』。父は引っ越しの仕事をしていて、毎晩遅いから、あまり話したことがない。でも一度だけ、お客さんに『ありがとう』と言われている父を見た。自分もそういう仕事がしたい。そう書いてありました」
先生は、そこで少し言葉を止めた。
「今日、受付で新郎の同僚の方に何人も言われました。『けんじさんには本当に世話になっています』と。あの作文のとおりになったんですね」
拍手が起きた。 先生は涙ぐんでいて、頭を下げたとき、上着のポケットから折りたたんだ紙が少しだけ見えた。
席に戻る先生とすれ違うとき、ゆかりが僕の耳元でささやいた。 「あの紙ね、さっき廊下で見たの。先生、ずっと一人で練習してた」
急に頼まれたのに落ち着いて見えたのは、先生が話し上手だからではなかった。 宴が終わったあと、僕は先生にお礼を言った。 先生は首を振って、「いや、急なことで、うまく話せなくてね」と言った。 ポケットの紙のことは、言わないでおいた。
