練習しなかった一言
麻衣の実家に初めて招かれたのは、十一月の日曜日だった。
電車の中で、僕はずっと同じ言葉を繰り返していた。 「初めまして。麻衣さんとお付き合いさせていただいております、ゆうたと申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
失礼のないようにしなければならない。 麻衣のためにも、最初の挨拶だけは完璧にしたかった。 口の中だけで言っているつもりだったが、向かいに座っていた高校生が、途中から僕をじっと見ていた。
手土産は、駅前のデパートで一時間迷ってから選んだ菓子折りだ。 紙袋を持つ手が、少し汗で湿っていた。
チャイムを押すと、すぐに麻衣のお母さんが出てきた。 エプロンのままだった。 僕は背筋を伸ばして言った。 「初めまして。ゆうたと申します。本日はお招きいただき……」
「はいはい、寒かったでしょう。早く上がって。廊下、冷たいから」
用意した文の半分も言えないうちに、僕は家の中に入れられていた。
食卓には、想像の三倍の料理が並んでいた。 麻衣のお父さんは、テレビの野球を見たまま「どうも」とだけ言って、そのあとはほとんど何も話さなかった。
静かなのが怖くて、僕は自分から仕事の話を始めた。 今の会社のこと、これからのこと、少しは貯金もしていること。 自分でも、面接みたいだと思った。
「ふうん」とお父さんは言って、茶碗を持った。 それだけだった。 テーブルの下で、麻衣が僕の足を軽く蹴った。
料理が半分ほど減ったころ、お母さんが僕の皿を見て言った。 「ゆうたさん、全然食べてないじゃない」
僕は箸を置いて、正直に言った。 「すみません。実は、緊張しすぎて、朝から何も食べていないんです」
お父さんが、初めてこちらを向いた。 そして、少しだけ笑った。
「そうか。じゃあ、食え」
ビールの瓶が、僕のコップの上に来た。 注いでもらいながら、「いただきます」と言うのがやっとだった。
帰りの電車で気がついた。 あれだけ練習した挨拶は、結局一つも最後まで言えなかった。 役に立ったのは、練習していなかった一言だけだ。 玄関でお父さんが言ったのも、短い一言だった。 「また来なさい」
次に伺うときは、電車の中で何も練習しないようにしよう。
