止まりすぎる車
真柴は五十歳で、初めて免許を取りに来た。 車の運転そのものが生まれて初めてだという。 教習所のコースを三周したところで、瓜生はもう感心していた。
「駐車、お上手ですね」と瓜生が言った。 「バックで一度も直さない人は珍しいですよ」
「おかげさまで。自転車には四十年乗っていますから」
「さすが、体が覚えているんですね」
ハンドルの持ち方も、鏡を見る回数も、教科書のとおりだった。 速度も落ち着いている。 問題は一つだけで、それが毎回、同じ場所で起きた。
コースの西側に、横断歩道が引いてある。 もちろん歩行者はいない。 人形も置いていない。 それでも真柴は、白い線の手前で必ず車を止めた。
「今日はこれで三回目です」と瓜生が言った。 「歩行者がいれば止まる。いなければ、そのまま通る。タイミングが早いんです」
「分かってはいるんですが、足が先に動きます。たしか、教科書にも『誰もいない時は通る』と書いてありました」
瓜生は少し考えて、聞き方を変えた。 「真柴さんには、あの白い線がどんなふうに見えますか」
「……渡る場所に見えます」
およそ三十年、真柴は同じ道を歩いて会社に通っていた。 車が止まってくれるのを待ち、頭を下げて渡る。 それが体に入っている。
「時間はたっぷりあります」と瓜生は言った。 「とりあえず、頭の中で一度イメージしてから行きましょう。速度を落として、左右を見て、止まらずに通る」
最後の一周で、真柴はどうにか止まらずに横断歩道を通った。 速度も、左右を見る順番も、ずれていなかった。
コースの端で車を止めたあと、瓜生が口を開いた。
「今、頭を下げませんでしたか」
「……下げました」
「誰もいませんでしたよ」
「三十年の癖ですから」と真柴は言った。 「免許を取っても、たぶん直りません」
