深夜二時のスペイン語
上野のビジネスホテルのフロントに、深夜二時、ロサが下りてきた。 タイミングの悪いことに、その時間、カウンターの中には土井しかいない。
「すみません。部屋、だめです」とロサが言った。
「エアコンですか。それとも、シャワーですか」と土井は聞いた。
ロサは首を振った。 三回振った。 土井の日本語の質問は、そこで止まった。
土井が使える外国語は二つある。 学校で六年習った英語と、大学で二年習ったスペイン語だ。 彼はまず英語のほうから始めた。
「ノイズ?ウォーター?」
ロサは少し笑って、自分の英語を返した。 「ノー・ウォーター。マン。スリーピング・マン」
土井の頭に浮かんだイメージは、はっきりしていた。 部屋の中に、知らない男が寝ている。 土井は鍵を取って、カウンターから出た。
「ノー、ノー」とロサはあわてて言って、横の壁を手のひらで二回たたいた。
そこで会話が止まった。 二人とも英語は初心者で、お互いの発音が、お互いに通じない。 ロサの英語は速すぎたし、土井の英語は形が違いすぎた。
英語がだめなら、あるいは、と土井は考えた。
「お客様、どちらから」
「ブラジル」
「……スペイン語なら、少しできます」
ロサはまた笑った。 「ポルトガル語です。でも、スペイン語、少し、分かります」
土井が二十年前に覚えたスペイン語は、およそ九つの単語だった。 ペラペラだったことは一度もない。 さすがに二十年たつと、動詞の形はどこかへ行ってしまう。 それでも、どうにか残っている単語を並べた。 部屋。 音。 大きい。 夜。 男。
ロサはゆっくり答えた。 壁。 となり。 眠る。 大きい。
「あー」と土井は言った。 「あー、はい、はい」
土井はカウンターに両手をついて、口を閉じたまま、低い音を二回出した。 グー、グー。
「イエス!イエス!」
「いびき、ですね。とりあえず、部屋を替えましょう」
フロントの時計は、たしか五分ずれている。 その時計で二時二十分、ロサは五階の鍵を持ってエレベーターに乗った。 五階は、両どなりの部屋がどちらも空いている。
ドアが閉まる直前、ロサは今夜おぼえた日本語を、一つだけ言った。
「イビキ」
