四月から、福岡
金曜日の夜、いつもより早く帰ってきた父は、食卓に座ってから、なかなか箸を持たなかった。
「四月から、福岡なんだ」と父が言った。 「転勤の話が、今日決まった」
母は味噌汁のお椀を持ったまま、動きを止めた。 花は箸を置いた。
「福岡って、飛行機で行くところ?」と花が聞いた。
「新幹線でも行ける。五時間ぐらいかな」
「五時間」花は繰り返した。 「遠いね」
母は少し考えてから、「相談してくれてもよかったのに」と静かに言った。
「相談する前に決まったんだ。会社が急に決めたので、俺も今日聞いた」
しばらく、誰も何も言わなかった。
「単身赴任にする」と父が言った。 「花は来年、受験だろう。今の学校を変えないほうがいい」
「私のために引っ越さないの」
「花のためでもあるし、母さんの仕事のためでもある」
母は首を振った。 「一人で暮らしたことがないでしょう。ご飯はどうするの」
「コンビニがある」
「三年間、毎日コンビニなの」
花は、去年引っ越していった友達のことを思い出していた。 あの子は転校して、半年で新しい友達を作ったらしい。 自分にできるだろうか。 できる気もするし、できない気もする。
「私は、行ってもいいよ」と花は言った。 「福岡でも」
三人とも、また黙った。
「その気持ちだけで、父さんは非常に助かる」と父が言った。 「でも、今回は一人で行く。夏休みには、みんなで来てくれればいい」
母が立ち上がって、冷蔵庫を開けた。 「じゃあ、料理を覚えてもらわないと困るわね。味噌汁ぐらい一人で作れるように、今日から」
父は箸を置いて、立ち上がった。 花が、父の台所に入る姿を見たのは、その日が初めてだった。
