おたがいの静けさ
日本のアパートやマンションに住みはじめた人が、まず驚くことがある。 とにかく、静かなのだ。
夜の十時を過ぎると、どの部屋からも、ほとんど物音が聞こえなくなる。 テレビの音も、話し声も、すっと消える。 まるで、だれも住んでいないかのようだ。
これには、理由がある。 日本の集合住宅は、壁や床がそれほど厚くないものだから、生活の音が、思ったよりも隣や下の部屋に伝わってしまう。 あなたにとっては小さな音でも、下の階の人には、けっこう大きく響いているかもしれない。
だから、多くの人が、自然と気をつけるようになる。 夜は洗濯機を回さない。 廊下やベランダで、大きな声で電話をしない。 友達を家に呼ぶときも、「遅い時間には、静かにしなくちゃ」と考える。
もちろん、失敗することもある。 ある人は、引っ越してきた日の夜、うれしくて音楽を大きくかけていたら、次の朝、管理人さんから「昨夜、下の階の方から苦情がありましたよ」と言われてしまった。 自分では、ふつうの音量のつもりだったのに、である。
こう書くと、日本の暮らしは、ずいぶん窮屈に思えるかもしれない。 ルールばかりで、疲れそうだ、と。
でも、少し見方を変えてみてほしい。
あなたが静かにするのは、規則のせいではない。 顔もよく知らない隣の人が、気持ちよく眠れるように、という配慮なのだ。 そして、その人もまた、あなたのために静かにしてくれている。
日本では、隣の人と深い近所付き合いをすることは、昔より少なくなった。 それでも、この「おたがいの静けさ」だけは、今も残っている。 あなたが夜、ぐっすり眠れるとしたら、それはきっと、顔も知らないだれかの配慮のおかげなのである。
