五十回のありがとう
はるかがこの会社に入ったのは、四年前の四月だった。 中野の駅から歩いて七分の、社員が十二人しかいない小さな会社だ。 はるかの机は窓側の一番後ろで、向かいに座っていたのが、だいすけだった。
最初の週、はるかはコピー機と戦っていた。 紙が詰まって、開けても閉めても動かない。 夕方までかかって直せなくて、あきらめて帰った。 次の朝来てみると、紙はきちんと入っていて、機械の横に小さなメモが置いてあった。 「B4はこっちの引き出しです」とだけ書いてある。 誰が書いたのか、そのときは分からなかった。
この会社では、帰る人に「お疲れさまです」と言う。 はるかはそのタイミングがどうしても分からなかった。 だいすけは毎晩、必ず先に言ってくれた。 それではるかも、そのあとに続けて言うことができた。
五月の雨の日、はるかは傘を持たずに出てきてしまった。 玄関で外を見て困っていると、だいすけが黙って古い傘を渡してくれた。 「余ってるやつだから、返さなくていいよ」
それだけ言って、彼は走って駅の方へ行ってしまった。
六月、初めての会議の前の日、はるかが遅くまで資料を作っていたとき、だいすけはもう帰るところだった。 何も聞かれなかった。 けれど次の朝、机の上に去年の同じ会議の資料が置いてあった。 付箋には「参考まで」と四文字だけ書いてあった。
七月も、九月も、同じようなことが続いた。 休んだ人の仕事、届かない荷物の電話、名前を思い出せないお客さんの顔。 だいすけはいつも、はるかが困る前に、少しだけ先に用意しておいてくれた。 お礼を言うと、彼はいつも同じことを言った。
「ついでだよ」
四年目の秋、だいすけの大阪転勤が決まった。 最後の日、昼にみんなで写真を撮って、花束を渡した。 それが終わってしまうと、オフィスはいつもどおり静かになった。 はるかは何を言えばいいのか分からなくて、ずっと机に座っていた。 帰る時間になって、やっと立ち上がった。
「だいすけさん、私、数えてみたんですけど」とはるかは言った。 「ありがとうございます、って、たぶん五十回ぐらい言わなきゃいけないみたいです」
だいすけは少し笑って、荷物を持ち上げた。 「そんなにあった?」
「ありました」
その夜、はるかは一人でオフィスに残って、コピー機に紙を入れておいた。
