活字の箱
隆の店は、駅前の商店街から一本入った細い通りにある。 表の看板には「印刷」の二文字だけが大きく書いてあって、その字は父が書いたものだ。 戸を開けると、油とインクの匂いがする。 奥の壁には、小さな引き出しがたくさん並んでいる。 中に入っているのは活字だ。 鉛でできた小さな文字が、五十年ぶん、箱の中で順番を待っている。
昔は、この通りに七つの店があった。 豆腐屋、時計屋、はんこ屋、それにそば屋。 どの店の主人も、隆のことを「隆ちゃん」と呼んだ。 今もそう呼ぶのは、二軒隣のはんこ屋の主人だけになってしまった。
仕事の中身も、少しずつ変わった。 十年前までは、名刺と封筒の注文が毎週あった。 五年前からは、その半分がパソコンで作られるようになった。 今年になって隆が刷ったのは、近くの小学校の卒業証書と、法事の案内と、閉店のあいさつ状が三枚。 あいさつ状の三枚は、どれもこの通りの店のものだった。
廃業という言葉を、隆は一度も口に出したことがない。 ただ、去年の冬に機械の部品が一つ壊れたとき、それを直せる職人はもう関東に二人しかいないと聞いた。 そのうちの一人は、隆と同じ年らしい。
音も減った。 以前は、朝の八時になると、三軒先の工場のモーターが低く鳴りはじめて、それが一日の始まりの合図のようだった。 工場が閉まってからは、この通りで朝いちばん大きな音は、隆の店の機械の音になった。
それでも隆は、毎朝六時に店を開ける。 まず活字の箱を出して、次に順番を確かめて、それから機械に油を差す。 年月というのは、こんなふうに過ぎていくものらしい。 何かが起きた日は一日もないのに、通りの景色は、はじめとすっかり変わってしまった。
日が暮れると、隆は表の電気をつける。 「印刷」の字が、暗くなった通りをぼんやりと照らす。 両隣の店の窓は、もう暗い。 看板の光は、道の向こう側の壁まで届いて、そこで止まっている。
