一番小さいのみ
朝の六時、海はまだ静かだった。 健一は仕事場の戸を開けて、電気をつけた。 四十年、毎朝同じことをしている。 木の匂いと、外から入って来る潮の匂いが混ざる。
健一は船大工だ。 この港で木の船を作るのは、もう健一の仕事場だけになった。
息子の隆は、十年前に東京の会社に入った。 出て行くとき、隆は「木の船を作る仕事は、これからなくなるよ」と言った。 健一は何も言わなかった。
その隆が、昨日の夜、帰って来た。 今朝は五時に起きて、父より先に仕事場に来ていた。
「これ、まだ置いてあるんだ」と隆が言った。 棚の上に、小さな木の船があった。 隆が小学生のとき、健一が作ってやったものだ。
「捨てるものじゃないだろう」と健一は言った。
二人は、作りかけの船を見た。 昔はいくつも並んでいたが、今はこれ一つだけだ。
「注文、減ったんだね」と隆が言った。
「プラスチックの船のほうが安いし、軽いからな」と健一が答えた。
隆は船の横に手を置いた。 「東京では、十年、机の前に座ってた。作った物が何も残らないんだよ。書いた紙は、次の日には誰も見ない」
健一は道具を拭きながら、黙って聞いていた。
「ここは楽じゃないぞ」と健一は言った。 「朝は早いし、冬は寒い。それに、船大工は木のことも、海のことも知らなければならない。一人でできるようになるまで、十年かかる」
「知ってる」
「見たことがあるだけだろう」 健一は笑った。
隆は少し黙ってから言った。 「継ごうと思う」
健一は手を止めた。 窓の外を、小さな漁船が一つ、港から出て行った。
「伝統を守れ、なんて言うつもりはない」と健一は言った。 「そういう考え方は、俺にはないんだ。ただ、いい船を作れ。海に出た人が、無事に帰って来る船をな」
健一は道具箱を開けて、一番小さいのみを取り出して、隆に渡した。
「まず、これの研ぎ方からだ」
