あの坂は川だった
たくみが「ふれあいセンター」の玄関に着いたのは、日曜日の一時十分前だった。 大学のボランティア係の人からは、「おじいさん、おばあさんに楽しんでもらってください」と言われていた。 たくみはかばんの中に、絵本を三冊と、昔の写真を使ったクイズを二十問、用意してきた。 準備には三日かかった。
集会室には十五人ぐらいが座っていた。 たくみはまず、絵本を読んだ。 声を大きくして、ゆっくり読んだ。 みんな静かに聞いてくれた。 静かすぎるようだった。 読み終わっても、拍手は三つしか聞こえなかった。
次にクイズを出した。 「昭和のころ、白黒だったものは何でしょう」。 答えは、すぐに出た。 全部すぐに出た。 たくみが問題を読み終わる前に答えられてしまうものもあった。 二十問用意した紙は、十分で終わってしまった。 時計を見ると、まだ三十分残っていた。 何を話せばいいのか、たくみには分からなかった。
一番前に座っていたともこが、手を上げた。 「あなた、この辺の子?」
「はい、駅の向こうに住んでいます」とたくみは答えた。
「じゃあ、あの坂、毎日通ってるでしょう。センターの前の、長い坂」
「通ってます。自転車だと、あそこだけは降ります」
「あれね、川だったのよ」
たくみは顔を上げた。 ともこはゆっくり続けた。 昔、あの坂のところには細い川が流れていて、両側に小さな店が並んでいたこと。 魚屋の前ではいつも水をまいていたこと。 学校の帰りに、みんなでその川に足を入れて遊んだこと。
「私が中学生のときに、埋めちゃったの。それで、道になったのよ」
「じゃあ、あの坂は……」
「川の岸。歩きにくいでしょう。あれ、岸だからよ」
ほかの人たちも、少しずつ話し始めた。 橋があった場所、氷を売っていた店があった場所。 たくみは絵本もクイズも出さずに、ただ聞いていた。 三十分は、あっという間に過ぎた。
帰り道、たくみは自転車を押して、その坂をゆっくり上った。 今まで千回は通ったことがある坂だった。 それなのに、今日初めて、その形が何なのか分かった。 教えに来たつもりだったんだけどな、と思って、たくみは坂の途中で少し笑った。
