「さん」と呼ばれた日
金曜日の午後五時。 田中さんの机の上には、もう何も残っていなかった。 十九年分の書類は、三日かけて整理した。 残したものより、捨てたもののほうがずっと多かった。
退職の日の挨拶は、五時ちょうどと決まっている。 田中さんは段ボール箱を一つだけ持って、部署のみんなの前に立った。
「皆様、長い間、本当にお世話になりました」
課長が拍手を始め、みんながそれに続いた。 田中さんは深く頭を下げた。
「至らない点も多かったと思いますが、皆様に助けていただいて、ここまで続けることができました。心から感謝しております」
挨拶が終わると、社員が一人ずつ握手をしに来た。 最後に残ったのが、佐藤くんだった。
「田中さん」佐藤くんは、そこで止まってしまった。 三年間、毎日となりの席にいた後輩だ。
「引き継ぎの資料、分かりにくいところがあったら、いつでもメールしてくださいね」と田中さんが言った。
「いえ、あの、資料は大丈夫です。……ちゃんと言っておきたくて」
佐藤くんは背筋を伸ばした。
「入社したときから、ずっと教えていただきました。三年間、本当にお世話になりました」
田中さんは少し笑って、いつもと同じ静かな調子で答えた。
「こちらこそ、お世話になりました。佐藤さんのおかげで、最後の三年はいちばん楽しかったですよ」
「くん」ではなく「さん」と呼ばれたのは、その日が初めてだった。 佐藤くんは、もう一度深く頭を下げた。
田中さんは箱を持ち直して、エレベーターのほうへ歩いていった。 振り返らなかった。 振り返ったら、また挨拶をやり直すことになるからだ。
