会社のマグカップ
会社を辞めた日、机の上のマグカップだけ持って帰ってしまった。 会社のロゴが大きく入っている、あの安いカップだ。 捨てるつもりだったのに、今も家の机の上にある。
フリーランスとして仕事を開始して、一か月。 朝は九時に起きる。 会議はない。 上司もいない。 すばらしい生活になるはずだった。
実際に毎日やっていることは、検索だ。 「フリーランス 仕事 探し方」。 「イラスト 依頼 相場」。 同じような言葉を、少しずつ変えて入れ直している。 パソコンの前に座ったときは、たしかに仕事をしている気分になる。 夕方になると、何も進んでいないことに気がつく。
いちばん怖いのは、収入だ。 会社にいたときは、二十五日になれば、何もしなくてもお金が入ってきた。 今は、二十五日になっても、何も起こらない。 妻には「来月は大丈夫そうだよ」と言っているが、通帳を見るときだけは、一人で見るようにしている。
二週目に、初めて依頼のメールが来た。 近所のパン屋さんからで、新しいパンの絵を一枚。 宛名に「けん様」と書いてあった。 会社にいたときは、誰も私を「様」とは呼ばなかった。 金額は、会社の一日分にもならない。 それでも、その日はマグカップでコーヒーを二杯飲んだ。
不安が消えたわけではない。 来月の予定は、まだ真っ白だ。
ただ、会社のロゴが入ったカップで、会社の外の最初の仕事を祝っているのは、なかなかおもしろい。 捨てるのは、もう少し後にしようと思う。
