台所のカレンダーの丸
十月の火曜日、朝の九時半。 みちこさんは市の保健センターの車を降りて、古い団地の三階まで階段を上がった。 この建物にエレベーターはない。
呼び鈴を押すと、少し間があってから、八十二歳の男性がドアを開けた。
「ああ、また来たのか」。 声はぶっきらぼうだったが、みちこさんはもう慣れている。
「はい、また来ました。血圧、測らせてくださいね」とみちこさんは答えた。
この訪問は、市が今年から始めた新たな取り組みの一つだ。 名前は「ひとり暮らし高齢者見守り事業」という。 対象は、家族と離れて一人で暮らす七十五歳以上の住民で、市内には千二百人ほどいる。
保健センターは病院のような医療機関ではないが、地域の暮らしを支える窓口である。 血圧を測り、薬の残りを確かめ、少しだけ話をする。 それだけの訪問だが、月に一度続けていると、小さな変化に気付けるようになる。 食べる量が減った、部屋が急に散らかっている、同じ話を二回する。 数字に出る前の変化だ。
この事業には、専門家だけで抱えないという考え方がある。 保健師や看護師のほかに、地域の商店や新聞販売店にも協力をお願いしている。 新聞が二日分たまっていたら、センターに電話が入る。 去年の冬には、その連絡のおかげで一人が病院に運ばれた。
名簿を作ることにも意味がある。 地震や台風のとき、この名簿がそのまま保護や避難の連絡に使われるからだ。 介護保険や地域包括支援センターなど、関連する制度は前からある。 今回の事業は、まだ介護は必要ないけれど一人の時間が長い、という段階を受け持つ。
帰り際、男性がみちこさんを呼び止めた。 「来月は、十二日でいいかい」
台所のカレンダーには、先月の訪問日に、小さな丸がついていた。
