まだ決断ではない
十一時を過ぎて、マンションの部屋はやっと静かになった。 由美はテーブルの上にノートパソコンを開いたまま、冷めたお茶を飲んでいた。
画面には、転職サイトの求人が二十件ほど並んでいる。 給料、働く場所、必要な経験。 どれも同じような形をしているのに、中身は一つずつ異なる。
今の会社に入って、十二年になる。 仕事は嫌いではない。 人間関係も悪くない。 ただ、去年の春から、朝の電車の中で同じことを考えるようになった。 この仕事を、あと二十年続けるのだろうか。
紙に数字を書きながら、由美は計算した。 今の給料。 求人に書かれている給料。 貯金。 家賃。 毎月、母に送っているお金。 転職したら、最初の一年は収入が下がるようだ。 二年目からは、たぶん戻る。 その「たぶん」が、いちばん怖い。
三十四歳。 若くはないが、遅くもない、と友達は言ってくれる。 でも、決めるのは友達ではない。
窓の外を見ると、向かいの建物の明かりが、まだ二つ三つ残っていた。 あの部屋の人たちも、今ごろ何か考えているのだろうか。
大学を出たとき、由美は自分の将来をはっきり決めたつもりだった。 三十歳までに仕事を覚えて、四十歳で自分のチームを持って。 人生はそういう順番に進むものだと思っていた。 実際には、順番などなかった。 ただ毎日があって、気がついたら十二年が過ぎていた。
お茶をもう一杯入れながら、由美は一つのことに気がついた。 さっきから、会社を辞めた後の生活ばかり想像している。 今の会社に残った場合のことは、一度も想像していない。
答えは、もう出ているのかもしれない。
由美はノートパソコンを閉じなかった。 求人を一つだけ選んで、「保存」を押した。 応募ではない。 まだ決断でもない。 ただ、明日の自分に渡す小さな宿題にはなる。
電気を消して、由美はベッドに向かった。 明日も六時半に起きる。 それだけは、どちらを選んでも変わらない。
