言えばよかった
職員会議は六時に始まって、七時を過ぎても終わらなかった。
二年三組の話になったとき、由紀子は一度、口を開こうとした。 健太のことだ。 今月に入ってから、授業中に机に伏せている日が増えている。 先週、廊下で会ったときに、祖母の具合が悪くて夜に病院へ行っていると本人が話していた。
「宿題の提出率が下がっていますね」と誰かが言った。 「一度、家庭に連絡したほうがいいかもしれません」
そこで言えばよかったのだ。 ただ眠っているのではないこと、家のことで疲れているらしいこと。 一言でよかった。 けれど由紀子は、担任でもない自分が言っていいのか迷った。 廊下で聞いた話を、本人に断らずに会議で出していいのかとも思った。 迷っているうちに、話は来月の行事に移っていた。
会議が終わって、由紀子はプリントを片付けながら、ずっとそのことを考えていた。 もっと早く言えばよかった。 あの三十秒で手を挙げていれば、健太を一日休ませてあげることだってできたかもしれない。 机の上には、明日までに終わらせなければならない採点が残っている。 それなのに、赤ペンを持つ気になれなかった。
「先生、まだ帰らないんですか」
田村が湯呑みを持って立っていた。 この学校に三十年いる、社会科の先生だ。 由紀子は少し迷ってから、さっきの会議で言えなかったことを話した。 話しながら、面倒くさそうな顔をされるだろうと思っていた。
「ふうん」と田村は言って、お茶を一口飲んだ。 「じゃあ、明日言えばいいじゃないですか」
「でも、会議はもう終わりましたけど」
「会議で言わなくてもいいんですよ。担任の先生に、廊下で話せば。会議で決まったことより、そういう話のほうが早く動きますから」
田村はそれだけ言って、湯呑みを洗いに行った。 特別な言葉は何もなかった。 それなのに由紀子は手帳を開いて、明日の朝一番にやることを書いた。 担任の先生に話す。 それから、健太に「おはよう」と言う。 さっきまでは、その二つがとても難しいことのように思えていた。
