猿も木から落ちる
雨の土曜日、私はおばあちゃんの台所で、じゃがいもの皮をむいていた。 手は動いていたけれど、頭の中はまだ昨日のことでいっぱいだった。
合唱コンクールの伴奏で、私は曲の真ん中で止まってしまった。 三秒くらいだったと思う。 でも、体育館が急に広くなったみたいだった。
「もっと練習しておけばよかった」と私は言った。「毎日弾いてたのに」
おばあちゃんは味噌汁をかき混ぜながら、少し笑った。
「まあ、猿も木から落ちる、って言うからね」
「うん、私もそう思ったの。だから昨日、部活のみんなにもそう言った。猿も木から落ちるからって」
おばあちゃんが手を止めた。
「あんた、それ、自分で言ったの?」
「うん。……だめだった?」
「だめじゃないけど、ちょっともったいないね」
おばあちゃんはコンロの火を小さくして、私の隣に座った。
「あのことわざはね、人が人に言ってあげる言葉なの。上手な人が失敗したときにね。猿は木登りが上手でしょう。その猿でも落ちるんだから、あなたも気にしなくていい、っていう意味」
「じゃあ、自分で言ったら……」
「自分は上手な猿です、って言ったことになるね」
私はじゃがいもを持ったまま笑ってしまった。
「おばあちゃんは、言われたことあるの?」
「一回だけ。四十のとき。二十年勤めた店で、お客さんの注文をまちがえてね。家に帰ってから、うちの母さんに言われた。猿も木から落ちるよって」
おばあちゃんは窓の雨を見ていた。
「あのとき初めて、母さんがずっと私の仕事を見ててくれたんだと分かったの。二十年やってきたから、猿って言ってもらえたんだよ」
私はじゃがいもをもう一つ取った。 「じゃあ、私はまだ猿じゃないんだね」
「登り始めたばかりでしょう。落ちたんじゃなくて、まだ途中だよ」
味噌汁のいい匂いがしてきた。 次のコンクールは、来年の秋だ。
