分かっている限り
締め切りは、明日の朝だった。
広瀬さんは、パソコンの画面をにらんだまま、さっきから同じ数字を三度も打ち直していた。 入社してまだ二か月。 初めて任された資料が、どうしても終わらない。
「広瀬さん、顔が真っ白だよ」と、隣の席の田村さんが声をかけた。 二人は、一つの机を向かい合わせに使っている。
「すみません、間に合わないかもしれなくて」と広瀬さんは小さな声で言った。 「私のせいで、みんなに迷惑をかけたら……。」
田村さんは、コーヒーを一口飲んで、椅子をくるりと回した。 「一つだけ聞くけど、分からないところ、ちゃんと分かってる?」
「え?」
「どこが分からないのか、自分で分かってるかってこと。」
広瀬さんは、少し考えて、うなずいた。 「この計算の……ここです。ここが、どうしても合わないんです。」
「じゃあ、大丈夫」と田村さんは笑った。 「どこでつまずいているのか、自分で分かっている限り、その仕事は必ず終わる。 本当にまずいのは、何が分からないのかも分からないときだからね。」
「でも、こんなこと、先輩に聞いてばかりで、すみません。」 「新人は、聞くのが仕事だよ。 分からないことは、遠慮せずに聞くべきだ」と田村さんは言った。 「一人でかかえこんで、締め切りに間に合わないほうが、よっぽど迷惑なんだから。」
田村さんは、広瀬さんの画面をのぞきこんだ。 「どれ、その合わない数字、一緒に見てみようか。」
二人で確かめると、原因はすぐに見つかった。 ひとつ前の表の、小さな入力ミス。 直したとたん、数字はきれいにそろった。
「……合いました」と広瀬さんは、ほっと息をついた。
「ほらね」と田村さんは、また椅子を回して自分の画面に戻った。 「困ったら、また聞けばいい。 聞ける人がそばにいる限り、そんなに心配することはないよ。」
窓の外は、もう暗くなっていた。 でも、広瀬さんの手は、さっきよりずっと軽く動いていた。
