五百円のスケッチブック
金曜日の夜に友達から「明日、行けなくなった」と連絡が来て、みうの土曜日は急に空いた。
十時に家を出て、竹橋で降りた。 近代美術館は、待ち合わせの場所としてしか来たことがない。 中に入るのは初めてだった。
四階から順に下りていく。 絵の前で立ち止まっては、五秒で次に行く。 それを三十分ほど続けたところで、みうは一人の男性に気付いた。
六十代ぐらいのその人は、持ってきた小さな折りたたみの椅子に座って、鉛筆を動かしていた。 膝の上には、手のひらより少し大きいノート。 壁の絵の全体ではなく、絵の中の一本の木だけを描いている。
みうは少し離れたところから、その手元を見ていた。 男性は同じ場所を何度も消しては、また描いていた。 十分たっても、まだ同じ木だった。
館内では鉛筆に限りスケッチができる、と入り口の紙に書いてあったのを、そのとき思い出した。
帰りに、一階の売店で五百円のスケッチブックを買った。 鉛筆は家にある。
その夜、机の前に座って、目の前にあるものを描いてみた。 ペットボトルだった。 線は曲がり、口の部分がどうしても丸くならない。 消して、また描いて、また消した。
顔を上げたら、四十分たっていた。 その間、スマートフォンを一度も見ていなかった。
日曜日はやかんを描いた。 月曜日は会社の机の上の付箋の束を描いた。 どれもうまくない。 ペットボトルの口は、四回描いても丸くならなかった。
ただ、ものを見ている時間は長くなった。 エレベーターを待つ間に、床のタイルの模様を数えるようになった。
次の土曜日、みうは折りたたみの椅子を買いに行った。
